スタートラインの夜


 

 女神の勅……というよりも、生まれ故郷にたまには帰ったら如何ですか、というような意図らしい休暇を押しつけられていた。久々に聖域に戻ると、少しの違和感を感じる。
 生まれ故郷といっても、ブラジルという土地にはそんなに思い入れは無い。幼い頃に聖域に引き取られる前、僅かにここに住んでいたかも知れないという処が少し思い当たるくらいだったくらいだった。
 だが折角貰った休暇を楽しむくらいの事は、自分でもする。もはや観光だ。市場を冷やかしたり、日本人街を見て、青銅達に土産を買ったり。よく考えると、土産を考えたり買ってばっかりだった気がするな、とふと笑いが漏れる。

 同僚への土産は悩んだ。悩んだ挙げ句、ワインにした。
 酒なら別にカシャーサでも良かったのだが、ここ数年ブラジルのワインの知名度が上がっているし、ギリシャの面々はワインの方が好ましいだろう。
 もう一つ、有名なビールもいいかと考えたのだが、ビールは意外に繊細なものだ。土地が変わると味も変わる。輸送段階での劣化も考えると、所謂旅の酒は旨いという奴にしておく方が良い。
 向こうからアテナに渡されたカードを見せて送ったから、恐らくもう着いているはずだ。この黒い小さなプラスチックカードは便利なものだとしげしげと眺める。
 ついでに、本人より、先に荷物が着いているのは面白いものだ、と再び牡牛座の口の端に笑みが浮かぶ。
 アテナの方針で、暫くは緊急時以外の転移の類は禁止なのだそうだ。曰く「社会文明に馴れて下さい」だそうだが、少しは困ることもある。
 ムウなどはジャミールへ緊急の用が等といって良く破っているようだが。

 見慣れた聖域の入り口。ムウの横顔と、巨大な荷物が見える。
「ただいま、ムウ」
「お帰りなさい。勅はどうでしたか」
 声をかけると先程まで困ったような表情で荷物を見ていたムウが、相好を崩してアルデバランに向き直る。第一宮の守護者。この顔を見ると帰ってきた、という気になるのは幼い頃からの気がする。
「ああ、いつも通りなかなか楽しかったが……この荷物は何だ?」
「貴方からのもの、のようなんですが……?」
 ムウが不思議そうに訊ねる。
「俺はこんなに土産を頼んだつもりは無いが……?」
 まさか、と思って荷物を開けて伝票を見る。
「すまん、これは俺が悪い」
 伝票をムウの手に握らせる。ワインは十四本のつもりだったのに、十四箱届いている。度々、こういう間違いはあるのだ。あちらはそういうところだから、チェックはきちんとしたつもりだったのだが。
 貴鬼に渡そうと思って買ったジュースが箱単位だったから、勘違いされたのかも知れない。

「原因がわかったなら良いですよ。じゃあ、とりあえず白羊宮の中に運んでしまいましょう。少しずつ配りに行けば良いですよ」
 ひょい、と何箱かムウが箱を抱え上げる。彼も黄金聖闘士だ。だから驚くことでもないが、普段のやわらかな物腰との差で驚く事は、まだたまにある。


 最後の荷物を運び終わったムウは、ふと訊ねてきた。
「土産、ということは、私も頂いて良いんですね」
 じゃあ私は一箱頂きましょうかと言いつつ、ムウは自分用の箱を貴鬼用のジュースとは別の場所に運んでいく。
「おい、一箱って……大丈夫なのか?」
「私、結構強い方ですが……ああ、そういえば呑んだこと無かったですね。二人きりでは」
 ムウは土産の箱を見渡して、呟く。
 二百年ぶりに天秤宮に戻ってきた主は宴会好きだ。しばしばそこで開催される飲み会で呑むことはあるが、ムウは師や天秤宮の主、童虎の処に居たり、雑事をこなしていて、座っているのを見たことが少ない。

「じゃあ、本当に私が強いか、試してみます?」
 悪戯っぽい笑顔で、ムウはそう誘いをかけてきた。

 白羊宮から何往復かして、配る分と残りを金牛宮に運ぶ。配る分を呑まないようにと念のため別の場所に置いた。
 旅支度を簡単に解いてから、グラスを用意するムウの背中を見る。ムウが十三年を経て聖域に戻ってきてからは、時々金牛宮を懐かしいと言って訪れていた。特に台所は把握されている。ギリシャの食材と食文化を参考にしたいと、ムウが入り浸っていたからだが。そして、復活してからはその頻度も上がった気がする。

 隣の宮だから、幼馴染みだからと考えていたが、それ以上の気持ちはお互いにあるような気がする。それでも、お互い何も言わない。言うタイミングもないのだ。
「はい」
 そういって渡されたのは大ぶりのただのボウルだった。酒器ですら無い。
「おいおい、これはないだろう」
「飲み比べでしょう。ならこれで充分です。ああ、でも、せめて一杯目はちゃんとグラス、出しましょうか」
 一杯目からこれなんて冗談ですよと言いつつ、ムウは背後からワイングラスを出す。
 コルクを開けて、赤い液体を注ぐ。
「はい。アルデバラン。無事な顔を見られて良かったですよ。お帰りなさい」
 そう言って渡されたグラスを受け取って、ムウも手にグラスを持つ。
「ムウも白羊宮守護、お疲れ様。ただいま」
 テーブルに向かい合って座って、かちりとグラスをあわせた。


 それからは酷かった。
 ムウはまず「勝負は公正ではないといけません」と言って、一杯目をゆっくり味わったあと、先程のボウルになみなみと一本分ワインを注いで、止める間もなく飲み干した。曰く、旅疲れで酔いやすいだろうアルデバランに配慮したというのだ。
 それでもちゃんと味わってはいたようで、さっきの瓶のとは少し味が違いますね、と呟いていた。恐らく醸造した所が違ったのだろう。
 そこからはお互いのグラスが空いたらお互いが注ぐ、それを繰り返した。床には空になったワインの瓶が整然と並んで行く。
 一時間かそれぐらい経った頃。
「でも、アルデバラン、こういう勝負で何も賭けないのはつまらないと思いませんか」
 普通と変わらない表情でく、とワインをあけるムウがいきなりそんな事を言い出した。
 お互い相当呑んでいる。が、ムウはそういう冗談を持ち出すタイプでは無いはずだが。

「何を言い出すんだ」
「負けたら一つ、相手のいうことを聞くって言うのも悪くないと思うんですが……貴方、勝負事好きでしょう」
「それとこれとは話が別だろう」
「面白いから良いじゃないですか」
 つ、とムウがグラスをアルデバランの方に向ける。アルデバランは瓶を掴んで液体を注ぐ。
 今日は自分も疲れて酔っているし、ムウはムウで酔っ払っている。アルデバランもまだ少しだけ残っていたグラスを干して、ムウに向けた。
 ワインの香気にやられたのだ。これは。受けようといって、アルデバランも注がれたワインを再び一気に干した。


 テーブルの上には、ワインが半分ほど残ったグラスと、薄紫の髪の人物がうつぶせている。
 滅多に見えないうなじが、薄く紅潮している。何とも扇情的な光景だが、アルデバランは目を逸らした。
「まけ、ですね」
 悔しいなあ、少しは自信があったんですけれどもと呟いて、ムウはゆっくり身体を起こす……が、またテーブルにくずおれる。
 体格差もあるだろうが、アルデバランもそろそろ限界だった。ムウが先に潰れたのは僥倖ではある。
「ほら、なにかひとつ、いってください」
 テーブルに寝込んだムウはまだそんな事をいっている。仕方ないとアルデバランは椅子から立ち上がった。
 ムウの腕を取って、肩を貸す。
「では、頼むから白羊宮に帰って、ゆっくり寝てくれ」
 ムウは一瞬目を丸くしたあと、くすくすと笑った。
「あなたらしい」
 薄紅色に染まった頬と肌に理性が揺らぐが、それは無理矢理ねじ伏せた。

 宮を出る。春もまだ半ば。少し冷たい風が、紅潮した頬に心地よい。
「わたしは、勝ったらあなたがわたしのことを……どう思っているのかを聞こうかと」
 思わず足がつんのめりそうになる。
「そういう事はちゃんとしている時に俺に聞け……!」
 またムウがくすくすと笑う。
「貴方の、そういうところが私は好きですから」
 それは告白と同じではないのか。白羊宮前最後の階段で良かった。転げ落ちていたかも知れない。話し声に気づいたのか、迎えに出ていた貴鬼にムウを預けるまえに、アルデバランはムウの耳元に囁く。
「明日、見舞いに行ったついでにその話はするから、今日はゆっくり寝てくれ」
「待ってますから」
 お互い顔が赤いのは、きっと酒の所為だけでは無いはずだ。
 そう思いつつ、アルデバランは踵を返して、金牛宮への階段を踏んだ。





初めてアルムウを書きました。復活設定です。
アルムウはピュアなところがいいなあと思います。バランさんが奥手だからちょっとムウも積極的に感情を出す感じ。うちはそんな二人です。