呪い


 


 かつかつ、と高い靴音は石造りの回廊に響く。
 耳に刺さるように不快だ。いつまで経っても慣れることはない。今のように、苛立っていれば尚更だ。

 巨蟹宮。自分の宮に戻ってきても心の細波は収まらない。むしろ、それはいや増すばかり。
 いつものようにサガの様子を見て、アフロディーテと会話をして。シュラの面倒を見て。途中の宮では不穏な動きがないかを監視をして。
 日が中天にかかる頃にここを出ても、戻ってくる頃には否が応にも日が暮れている。酒の瓶を開けて、デスマスクは溜め息を吐いた。

 最近のアフロディーテの様子は明らかにおかしい。裏切るということは無いだろうが、元々持っていた厭世的な雰囲気が更に増した、と言うべきか。アフロディーテの部屋のものも、段々少なくなっている。
 それを指摘しても一層、あちらの態度を硬化させるだけというのはとうに気がついていた。だから言わないが、それが一層自分を苛立たせることにデスマスクはとうに気づいている。それを押し殺している自分がそうさせているのにも。

「……」
 ふと、先程の靴音のように刺さるものを感じた。視線。一番古い死仮面が相変わらずこちらを見ている。
 若い女。元々端正だったであろう顔は、今は面影すらない。
 きつく睨み付ける目は自分に突き刺さる楔だった。それだけがあの日と変わらない、ただ一つのことだ。



「勅令だ。悪く思うな」
 服は泥にまみれ、髪も解れて地面に這いつくばる女の髪を引っ張って無理矢理に立たせた。
 女は心臓が破れるほど走って、あがった息のまま切れ切れに告げる。目をかっと見開いたその顔は、今も克明に思い出せる。
「あなた、を、断罪する」

 積尸気に送れば早かったのだろうが、その時自分はそれをしなかった。
 出来なかったという方が正しいのか。積尸気に送るのも、自らの手で殺すのも、目の前の女が死ぬという事実は変わらない。
 むしろ、積尸気に送った方が自分もこんなに罪の意識に塗れることなく、女も楽に死ねただろう。
「あの偽教皇を、一体どこまで守れる、のか」


 女は教皇宮の女官だった。デスマスクも知っている顔。いつもやんわりと微笑んでいた、控えめな印象しかない女。

 そんな女がいつの間にか教皇に異変有りと知って、聖域を出て知らせに行こうとしたのだろう。誅伐しろと命じられたときにはあの控えめな印象とほど遠い感覚を覚えた。その偽教皇――サガに。
 これについて行くと決めた以上サガの命令は三人にとり勅令であり、それに背く理由などない。
 しかし、そのサガが今回デスマスクに科したものは、理解できなかった。
「デスマスク、今回は積尸気を使うことはまかりならぬ」
 くつくつと嗤いながら、黒い教皇は続ける。楽しいではなく、悦んでいるように。
「初めてひとを屠るのだ。あのような技で殺すことは許さぬ」
 自らの手で、いのちを摘み取るがいい。告げられたその命令に従って、自分は今この女を殺そうとしている。


「――恨みごとは終わりか? じゃ、ま、悪いけどな」

 女は睨み付けている。もう言うべき事は無い、と目が告げていた。
 その刺さるような視線。それから目を逸らし、デスマスクは女の胸に拳を突き立てた。
 ぞぶり、と不快な感覚。肉体から急激に命が抜ける瞬間。 
 あっけなく女は死んだ。がくりと頭を垂れて、デスマスクの腕にもたれるようにして、絶命している。
 そんな女の身体を地面に横たえる。あとには血に塗れた自分の手と、肉の感覚が残った。


 顛末を聞きつつサガは満足そうに嗤う。報告するために反芻したそれは、自分の気分を酷く悪くさせた。
 だから双魚宮でアフロディーテに顔色が悪いといわれても、無視した。
 磨羯宮でシュラに声をかけられたが、聞こえないふりをした。
 女の顔と、感覚と、サガの嗤い顔。決定的に自分が変質してしまった感覚を拭いたい。
 慣れた巨蟹宮まで戻れば。そう思って戻ってみれば、壁面に異変がある。

 女の顔。

 無念を体現したようなその顔を見て、デスマスクは小さく嗤いを漏らした。
 ああ、そうだ。だからサガは嗤ったのか。もう戻れないと。戻る道などないと。
 いままで自分はそれが実感としてなかったのだと、デスマスクはひとしきり笑った。そんな自分が愚かだと。




 歳を重ねて、年を重ねて、さらに増えていく死仮面はある意味でデスマスクを縛り付ける呪いになっていった。
 誰も恨まない。あの日自分が選んだ道だ。
 それでも知っている。いつか破綻が来ると。
 それでもいつまで続くんだろうな。そう、デスマスクはその女の顔に語りかけた。


お題もの、山崎ハコの「呪い」。