コーラルリーフ


 


十年と一言にいってしまえば、その重みも薄くなるかと声に出して言う。
「……そんな事は、無かったか」
 ぽとりと落とした言葉はただひたすらに重い。
 感傷と感情が重たく混じり合ったそれは、双魚宮の居室の冷たい石壁に木霊して、己に刺さる。
 シュラとデスマスク。そしてサガ。崩壊など最初から解っていただろう。
 それでも自分は、この聖域を守りたかった。孤児だった自分は本当の名前を知らない。誕生日も確かではない。
 年の近いシュラもデスマスクも同じだった。そんな自分達に名前を与え、星宿を読んで誕生日をくれたのはサガ。
 共に過ごした修業時代にはいつもその3人の影がある。そして、今はもういないアイオロスの影が。
 わたしを人として育んでくれたのは、その『聖域』だった。歪んでも、変質しても、私はそれを護りたかったと、ふと呟く。
「……」
 十年前。逆賊討伐の命を受けて出て行ったシュラが、血に塗れて帰参したときに私の少年時代は終わった。
 逆賊はアイオロスだったとだけ呟いて何も喋らなくなったシュラを目の前にしてデスマスクと二人で約束した。守ると。何を守るかはお互い言わなかった。その時はきっと同じものを見ていたから。
 教皇に二人で会った。あの人はあの人ではなくなっていた。黒い髪に血よりも赤い目。
 端正ではあるが歪んだ笑みを浮かべたその人に私たちは従う事を決めた。
 その結果はどうだろうね、と心の中で呟く。

 十年経てば七つの子供とて道理の解る年になる。
 ジャミールに去った子供は、今頃どうしているのか。デスマスクと何度か話題にしたが、放っておくのが得策だと投げた。身中の虫になりそうな乙女座は、獅子座は。これも何度か話題にした。実のある結論は出なかった。
 そして、十年の間、ただひたすら自分の非を悔い、ころしてくれと泣くあの人。
 自分にはただ聞く事しか出来なかった。私にはこの人の身のうちに切り込んでいくだけの心もない。
 綻びは至る所に。
 十年経てば、あんなに同じだと思っていたひとの見ているものすら変わるのだから。

 ぎい、ときしむ音を立てて扉が開く。外に出ると春は名のみの冷たい夜風が出迎える。
 薔薇園を見下ろす。なくしたものはこの薔薇の海に埋まっている。涙も、感傷も、なにもかも。
 日が変われば二十歳の誕生日。
 訓練着だけの薄着のまま、暗い闇色が薔薇よりあかい曙色に変わって、薄い青色の溶けた空になるまで、私は薔薇を見下ろしていた。



 薔薇の処し方を書き始めた。魔宮薔薇の毒について。扱いについて。
 自分がいなくなったあとに面倒を見るものが、困らぬように。
 幾ばくかの償いにはなるだろうか。償い?何への。
 次の魚座のためか。次が決まるまでに薔薇を世話する雑兵のためにか。
 解らないが、必要なものだ。
 羊皮紙が一枚埋まる度に、私は私物を処分した。



 一年が過ぎた頃、デスマスクが何かに気づいた。
「なあ、最近もの減ってないか」
「そうか?」
 お前が小さい頃にサガから貰った花瓶、ねぇじゃんとデスマスクが言う。
「ああ、それなら割ってしまったから」
 割ったのは本当で。でも、それは、自分で地面に叩きつけただけ。嘘は言っていない。
「ふうん」
 探るように奴の目は私の居室を眺め回す。
「心配しなくても、君が考えているような事は考えていないよ」
「……ならいいけどよ」
 かり、と羊皮紙に最後の一文字を入れる。それを仕舞い込んでから、デスマスクに声をかけた。
「お茶、出すよ。何も構わず悪かったね」
「悪いって、それ、サガの書類だろうが。良いも悪いもねぇよ」
 私はそれを笑って曖昧にする。
 デスマスクとシュラはここで頻繁に茶を飲んでいく。だから、専用のカップを置いてある。
 私はデスマスクのカップを手にとって、それから自分のカップを手にとって――わざと、落とした。
 かしゃん、と儚い音がした。しろい陶磁は花片のように足元に散らばる。
「おい、何してんだよ」
「手が滑った」
 かちゃかちゃと片付ける私の背中に、デスマスクが告げる。
「……シュラんとこ寄る約束があるから、戻るわ」
 わりいな、と言いつつ、戸口で私に訊く。
「……大丈夫か」
「なにが」
 そんな私の態度に、デスマスクは苛立ったような顔をした。
「食えない魚だよな、ホントによ」



 二度目の誕生日もまた夜更けから空を見ていた。
 終わりはもうすぐ。サガが少しだけ教えてくれた星読みがそう告げる。
 それからはデスマスクとシュラを居室に入れなくなった。応接室をつくって、取り繕ったその部屋でだけ二人と会う。
 そして部屋のものはどんどん減っていった。反対に羊皮紙は積み重なっていく。



 三度目の誕生日の前の日に、とうとう茶器を全て処分した。生活するのにはもう必要が無い。
 最後までとっておいたのは、サガとアイオロスとが聖衣を授かった記念に贈ってくれたものだったから。
 聞こえてくる女神を奉じる青銅聖闘士の噂。きっと終わりが近い。
 地面に撒かれた陶磁器は、闇夜にもしろく、まるで骨が散らばったよう。
「……」
 ふと、泣きたい気持ちが込み上げてくる。だけど泣けない。自分にそんな資格はない。
 大丈夫と呟く。言い聞かせるように。
 これで良い。何一つ持ってはいけないから。
 こうして胸に刻んだ思い出と、魂に焼き付いた想い。それだけで、まっすぐ進める。最後まで、きっと。


 いつまで闇夜に佇んでいたのだろう。顔を上げれば、気がつくと空は、燃え立つような薔薇色になっていた。

お題もの、Coccoの「コーラルリーフ」。